見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

キリスト・イエスの僕

キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから。
(ローマの信徒への手紙1章1節) 

ローマの信徒への手紙の冒頭で、書き手である使徒パウロは宛先であるローマ教会の信徒たちに自己紹介をしています。パウロは自分のことを「キリスト・イエスの僕」と呼びます。「僕」とは「奴隷」です。金銭で売買され、自由はなく、主人の持ち物、道具と見なされ、生かされるも殺されるも主人の自由である人間です。あらゆる人間の身分のなかで、これほどに悲しく、惨めなものがあるでしょうか。

奴隷という言葉が文字どおりの意味ではなく、たとえとして語られることもあります。他人に支配されている人も奴隷と呼ばれることがあります。富や飲食物にとらわれ、自由を失っている人も奴隷と呼ばれることがあります。いずれにせよ、奴隷は好ましい境遇ではありません。奴隷であることは悲しみであり、苦しみです。だれが好き好んで奴隷であることを望むでしょうか。
けれどもここに、わたしは奴隷であると自己紹介する人があります。しかも嬉々として、あふれるほどの喜びに満たされながら、そのように言う人があります。驚くべきことではないでしょうか。

パウロが喜びつつ、自分は奴隷であると言うことができたのは、ひとえに彼が「キリスト・イエスの僕」であったからです。キリスト・イエスのもとでは、しばしば驚くべき価値の転換が起こります。キリスト・イエスの奴隷であること。すなわち、この方に徹底的に束縛されること。実はそれは、この上ない自由を獲得することなのです。なぜならこの方こそ、自由そのものであられるからです。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)

すべての人間にとって最も大切なこと。それは、だれが自分の主人であるのかということです。キリスト・イエスを信じる前は、罪がわたしの主人でした。わたしは罪に支配され、束縛され、わたしには自由がありませんでした。
しかし今や、わたしはキリスト・イエスの奴隷です。キリストこそがわたしの主人であられます。

キリスト・イエスの奴隷となることは、この世のあらゆるものから解き放たれることです。この方と結ばれるとき、わたしたちはわたしたちを縛りつけているあらゆるもの―この世の価値であろうと、金銭であろうと、他人であろうと、あるいはわたしたち自身の利己心であろうと、それらのいっさいから解放され、真の自由を得るのです。

奴隷であることに喜びがあり、自由があります。キリスト・イエスがその尊き十字架の血潮によってわたしたちを買い取ってくださり、わたしたちの主人となってくださったことに、パウロと共に感謝したいのです。