見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

戦時下の詩人たち

詩人の中村不二夫さんが、2月になさったご講演のレジュメをお送りくださいました(大変、充実したもの)。「翻弄された『戦時下の詩人たち』」(日本詩人クラブ例会)。YouTubeで視聴できます。

〇戦争の時代、99パーセントの詩人が愛国詩を書き、日本の侵略戦争に加担した。彼らは当局に強いられ、一般人の心情を代弁するかたちで愛国詩を書いた。それはマスコミの偏向報道によって戦争熱に浮かされてのことであり、それらの詩は真実ではなかった。誤った判断のもとに書かれた詩。書かれずともよかった。

〇詩人たちはなぜ愛国詩を書いてしまったのか。
モダニズム詩人たちには、形式的模倣があっただけで中身がなかった。彼らに影響を与えた西欧のモダニズムは、一種の社会的挑戦であった。しかし彼らにあったのはその技術的応用にすぎず、社会的意識は脆弱であった。こうした「言語詩人」の危うさは、現代の詩的状況にも通じるものがある。

プロレタリア詩人たちは政治的意味と芸術的意味との関係を問うことはしたが、素材が生硬なまま出されるなど、両者の(弁証法的)統合というところまで発展させるには至らなかった。内面を鍛えることが不十分であったゆえ、愛国詩が入り込む隙をつくってしまった。
モダニズム詩人たちとプロレタリア詩人たちとは、中身を掘り下げることの不十分さ、思想的弱さということにおいて共通している。
〇しかし、愛国詩を書かなかった1パーセントの詩人たちがあった。6人の詩人たちを紹介。その中の、松永茂雄について。この人のどこがすごかったのか。戦場という極限状況にいると、人間の知性は冷静さを保ち得ないはず。しかし、彼は冷静さを保ち続けた。最後に勝利するのは何人殺したか、勲章をもらったかということではない。人間における勝利とは、知性の勝利である。彼は死んだが、彼の知性は死ななかった。知性を殺してしまった段階で、人間は終わりである。

戦時下の教会の戦争協力にも、オーバーラップするところがあると思います。教会が侵略戦争に加担してしまったことにも、神学的基盤の脆弱さということがあったはずです。