見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

キリストが復活しなかったのなら

死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教も無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。
(コリントの信徒への手紙一15章13、14節)

復活を信じる信仰ということを考えるときには、このことだけはわきまえていなければならないということがあります。それは命の神がおられ、命の神がわたしたちのことを御心に覚え、顧みてくださる、わたしたちを愛してくださるということです。

わたしたち人間は魂と体とを具えています。人間が体を持つとはどういうことでしょうか。それは生ける現実を持つ、命の現実を持つということです。そして生活のいとなみを持つということです。人生を夢物語のように生きるということではなく、命の手ごたえをしっかりと持ちながら生きるということです。この地上に生活をする。生活の現実のただ中に身を置いて生きる。さらに、そこにともなう喜び、悲しみ、試練、苦しみ、そうしたものを誠実に、正面から引き受けて生きるということです。それが体をもって生きるということにほかならないのです。
そして、覚えておりたいのです。キリストが甦られた、しかもキリストを信じる者たちの初穂として甦られたことを信じるとは、キリストの甦りをわたしたちのこの世における生活、地上の生活の現実とかけ離れたところで、何かそれらしいことを漠然と信じるというようなことではないのです。
わたしたちはキリストの甦りを信じ、わたしたち自身の甦りを信じます。体をもっての甦りを信じます。使徒信条が「われは体の甦り、永遠の命を信ず」と告白しているとおりです。そのように、わたしたちが体の甦りを信じるということ、そのことはたとえば人と人との間で愛が冷える、親しい者たちの間で愛が憎しみに変わるということとかかわります。戦争やテロが起こるということとかかわります。この世に差別や搾取があり、貧しい者たちが餓え、弱い者たちが虐げられているという現実とかかわります。
この世には、わたしたちの魂と体とが弱り果てるような現実があるのです。わたしたちが魂においても体においても傷つけられ、泣き叫ぶような現実があるのです。罪の現実です。この世には人の命を損ない、愛を破壊し、幸福を奪う力が、罪の力が働いているのです。

だからこそ、パウロがこのように言っていることを聞き逃すことができないのです。「そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にいることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人人も滅んでしまったわけです」(17~18)
死者の復活などないと言っている人々に向けて、パウロは問いかけるのです。キリストが復活されたのは、あなたがたのためではなかったのか。あなたがたが罪赦され、生まれながらの罪の病、死に至る病を癒され、永遠の命を得る、もはや罪にも死にも支配されない新しい人、幸いな人間に生まれ変わる、復活する、そのことのためにキリストは初穂として、あなたがたの初穂として復活されたのではなかったか。

もしキリストが復活されなかったとしたら、この世は、人間は、なお死の闇の中に置かれたままであったのです。死がいっさいの終わりであったのです。わたしたちは人間を脅かす恐れや悲しみや嘆きや失望にうちかつことができないまま、まことの愛と平和と喜びと命を見出すことができないまま、滅んでいくほかはなかったのです。
しかし、キリストは甦られた。信じる者たちの初穂としてよみがえられた。それゆえわたしたちも復活する。新しい命に復活する。いや、すでにわたしたちは今ここで、死を打ち破って甦られ、永遠の命を生きておられるキリストと信仰によって結びつけられて、永遠の命を生きている。永遠の命の恵みのもとに置かれている。この事実によって、人は変えられるのです。キリストの復活を信じる信仰は、人間のありかたを根本的に変革するのです。