見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

御子

御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。
(ローマの信徒への手紙1章3~4節)

「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ」た。このパウロの言葉から、ヨハネによる福音書1章14節も思い起こされます。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。「言」とは「ロゴス」、はじめから御父と共にあった子なる神、永遠の神です。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(1章1節)
そして「肉」とは、真の人間性をさします。つまり御子イエス・キリストとは、永遠の神が真の人間性をまとって世に来たりたもうた方であるということです。

神が人となられた。この知らせを深い驚きなしに聞き得る者がひとりでもあるでしょうか。生まれながらの人間にとっては、これはつまずきを呼び起こす知らせでもあるでしょう。
けれども神の恵みによって御言葉の真理に目を開かれた者たちにとっては、この知らせは喜びのおとずれです。御子を通して、神は人間と出会ってくださる。神が人となられた。この大いなるへりくだりによって、神が人と共にいます―「インマヌエル」の祝福は実現した。神はわたしたちの目で見、わたしたちの耳で聞くことのできる方となってくださった。神と共に生きる道が、こうして開かれた。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。そのように言われるときに、わたしたちはこれをだれかほかの人の人間性であると考えるべきではありません。まさにこのわたしの「肉」のことが、ここで言われているのです。
イエス・キリストはわれわれの肉をまとった。したがって、イエス・キリストがいるところには、われわれもいるのである。われわれがそれを知っているかどうかには関係なく、受肉によってそうなったのである。イエス・キリストの身に起こることは、われわれの身にも起こることである。あの飼葉桶の中に横たわっているのは、われわれすべての「哀れな肉と血」であり、イエス・キリスト服従と苦しみにおいて純化し、聖化したのは、われわれの「肉」なのである。そして、イエス・キリストと共に十字架につけられて、死に、イエス・キリストと共にほうむられたのは、われわれの「肉」にほかならないのである」(D・ボンヘッファー

このことを理解するとき、聖書がわかり、御子がわかるのです。福音が喜びの知らせであることも理解されるのです。神は御子をわたしたちと同じ人間として世に遣わし、十字架に死なせられました。そして三日目に復活させたまいました。そのことによって、罪と死の法則に支配されたわたしたちの古き「肉」を葬り去り、永遠の命の祝福のもとに生きる新しい人間となしてくださいました。驚くべき恵みです。神の福音は御子イエス・キリストを通して、このようにしてわたしたちにもたらされたのです。

憐れみ深い人々は、幸いである

憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
(マタイによる福音書5章7節)

「憐れむ」という言葉には同情するとか、不憫に思う、そういうニュアンスが含まれることがあります。憐れむとは困っている人に同情したり、具体的に助けたりすることだと考えられることがあります。そこでは隣人よりも自分が上に立って、上下関係が生まれるようなかたちになる場合もあるように思われます。

聖書においては憐れむとは愛することであり、愛するとは共にあることです。共にあること。それは寄り添うことでもあります。そして(ここに言われる)憐れみ深くあるとは、相手に寄り添う業をまっとうする、相手に添い遂げるということです。相手も自分も順調な時には共にあるけれども、共にあることに困難が生じたなら離れてしまうというのではなく、文字どおり添い遂げることです。
つまり主イエスの言われる憐れみ深い人々とは、どんなにむずかしいことがあろうと隣人を愛し続ける、隣人と共にあり続ける、そこにともなう重荷や労苦をも正面から担い続ける、そういう人々を言うのです。そのような人々は幸いであると主イエスは仰せになるのです。

それはむずかしいことのように思われます。しかし主イエスは、あなたがたも憐れみ深き人間になることができると言われます。なぜでしょうか。わたしたちも「憐れみを受け」たからです。
わたしたちが受けた憐れみ。それは神の憐れみです。いわゆる慈善事業、施しの業であれば、この世でも行われています。神なきところ、神について語られない場所でも行われています。けれどもここで主イエスがお語りになっているのは人間に対する神の愛、神の憐れみです。

では、人間に対する神の愛、神の憐れみとは何か。罪人を憐れむ憐れみです。罪人のために独り子を十字架につける、罪人の罪を贖うために独り子の命を犠牲のささげものとしてささげる愛です。
人は皆生まれながらに罪の支配のもとにあります。この一点において、すべての人は一列に並ぶのです。そのことが示すのは、人はだれもが神の憐れみを必要としているという事実です。人はひとり残らず、神の憐れみなしには生きていけない存在であるという事実です。現に、わたしたちは神の憐れみによって生かされています。神がわたしたちを憐れみ、御子キリストの十字架によってわたしたちを赦し、わたしたちを愛してくださるゆえに、わたしたちは今このようにして生きているのです。

人間が憐れみ深くある。そういうことが起こっているのだとすれば、それは神の憐れみを受け、これを隣人と共に分かち合って生きているということ、それ以外のことではありません。「憐れむ」という言葉のもともとの意味は、はらわたが痛む、内臓が激しく揺り動かされるという実に強い、激しい言葉です。神はわたしたち罪人のみじめな姿にはらわたを痛め、その憐れみにうながされて御子を十字架につけてくださったのです。わたしたちはこの神の愛、十字架の愛と赦しの恵みをいただいた。だからこそみずからも憐れみに生きることができるのです。

ここであらためて「受ける」という言葉の重さを思わずにはおれません。よく考えるなら、わたしたちは受けてばかりです。ある神学者は、キリストを信じる者は受ける力を磨き、鍛えるべきであると言っています。神の言葉を聞くとき、わたしたちの耳は受けるための道具です。聖餐の食卓においてキリストその御方を受ける時、わたしたちの五体はひたすら受けるための器です。受けること。そこにキリスト者の喜びと祝福があるのです。

自己の相対化

宗教改革者のジャン・カルヴァンは『キリスト教綱要』の冒頭で、神を知ることと自分自身を知ることとはひとつのことであり、切り離すことができないと述べています。自分のことは自分がいちばんよく知っていると言う人がありますが、自分のことは案外わからないものです。他人から指摘されてはじめて気づくことも少なくはありません。
自分とは何者か。さらには、人間とは何者か。創造主なる神の前に立つ時に、神の光に照らされる時に、はじめてそのことがわかるとカルヴァンは言うのでしょう。

確かに、自分の内側を見つめているうちはひとりよがりな自己理解から抜け出すことはできません。自分を本当に知るためには、他者に向けて心を開かなければなりません。自分を相対化する他者の声に耳をかたむけなければなりません。自分の頭上で、天が開けるということが起こらなければなりません。

私に洗礼を授けてくださった牧師は、最初の出会いの日の語らいのおりに「聖書の神は永遠者であり、この方の前ではすべての人間が相対化される。一列に並ぶ」と言われました。その言葉を聞いたことが、次の週から礼拝に通い始める大きなきっかけとなったことを思い起こします。

 

本質的事柄

罪が支払う報酬は死です。
(ローマの信徒への手紙6章23節)

聖書が語る生と死は、肉体の生と死、医学的生物学的な生と死とを超えた事柄、人間存在にとってまさしく本質的な事柄です。聖書をとおして、人間における生と死の意味を深いところで理解しなければならないと思います。

ブラザー・ロジェは、ある国には「死にゆく人のための家」というのがある(マザー・テレサがインドのカルカッタに設けた施設と思います)が、先進国にはわたしたちの目に見えない、死にゆく人の家があると言っています(『信頼への旅』)。そこには人々から見捨てられた子どもや若者たちが身を置いている、彼らは破壊された人間関係や愛情の欠如により、存在の深みまで傷ついていると。

的を射る

人生の目的はどこにあるのか。どのような命を生きるべきなのか。
それをあやまたずにとらえること。大切なことです。

この世的な業績を上げること。この世で名を上げ、成功をおさめ、高い地位を得ること。
そうしたことを人生の目的に据える人々は、少なくないと思います。
しかし、それらにはるかにまさって―

愛すること。赦すこと。和解をつくり出すこと。
それらこそきわめて大きな、有意義な、宝もののような価値をもつことではないでしょうか。
そうした命を生きることができたなら。そうしたたたかいを、愚直に担うことができたなら。
一度きりの地上の人生は、豊かに満ち足りるのではないでしょうか。

義に飢え渇く人々は、幸いである

義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
(マタイによる福音書5章6節)

義。正しさです。正義がきちんと通る場所は幸いである。そのような場所に生きる人々は幸いである。それは確かなことでしょう。
しかし、地上には義が貫かれないという現実があります。しばしば正義は曲げられ、不義がまかり通ります。義に生きようとすればするほど、不義が幅をきかせるこの世の厚い壁にぶつかります。その時、義に生きようとする者たちの切実な問いが生まれます。

正義が曲げられ、正しい者たちが不義なる者たちに苦しめられる。そうした現実を目にするとき、人は義憤にかられます。しかしよく考えたいのです。人の義は完全なものではありません。作家の三浦綾子さんは指摘しています―人は生まれながらに、自分のすることはいつも正しく、他人のすることはたいてい誤っているという二重のはかりを宿している。
それゆえ、人は自分を超えた義のはかりを、すなわち神の義のはかりを持たなければならないのです。

ここで主イエスが言われる「義に飢え渇く人々」とは、神の義に飢え渇く人々ということです。自分の義のはかりが生まれながらに曲がっていることを知るとき、わたしたちは神の義を求め、神の義に飢え渇きます。
さらに言えば、実は義に飢え渇くのは人間だけではありません。最も深く義に飢え渇いておられるのは神なのです。わたしたち人間は、生まれながらの罪によって神の義を損ねます。その現実に心を痛めておられるのは、神なのです。

にもかかわらず、主イエスは仰せになります。「義に飢え渇く人々は、幸いである」。わたしの義を捻じ曲げ、不義を重ねるあなたがた罪人はわざわいであるとは仰せにならないのです。
なぜでしょうか。義に生き抜くことができない、義なる神を悲しませることしかできないわたしたちを、そのようなみじめさから救い出すことのために、神は御手を伸ばしてくださったからです。そうした現実のただ中にみずから介入してくださったからです。
「義に飢え渇く者は幸いである」。なぜでしょうか。「その人たちは満たされる」からです。義を満たすのは人間自身ではありません。神が、義に飢え渇いている者たちを満たしてくださったのです。どのようにしてでしょうか。独り子を十字架につけることによってです。

主イエスは十字架の上で、「渇く」と仰せになりました(ヨハネによる福音書19章28節)。主イエスは十字架の上で、義に飢え渇くことのきわみを味わい尽くされたのです。わたしたちの不義、この世の不義の一切をその身に負われたのです。神はご自身の義に背くわたしたちの、その不義の身代わりとして、罪なき独り子を十字架の上に死なせられました。独り子の贖いの死によってわたしたちの罪を赦し、わたしたちを罪の支配から解放し、まことに義なる者としてくださるためにです。主イエスが十字架に死なれたことにより、わたしたちの飢え渇きは根本的なしかたで満たされたのです。

そろそろ桜も終わりでしょうか。少し前までは、お花見でにぎわう各地(岐阜も、名古屋も)の様子が報じられていました。宴席がしつらえられ、盛り上がるという光景は、以前に比べると減っているのでしょうか。でも、今年も見られたかもしれません。

忘れられない話があります。吉田兼好徒然草』の中のお話。ある時お坊さんたちが酒宴で盛り上がり、めいめい芸を披露していた。中のひとりのお坊さんが、手もとにあった鼎(かなえ―古代中国の金属の器。中華鍋のような道具。鍋に三本足がついたような形状になっている)をさかさにして頭にかぶり、踊りまくった。その場にいた人々は拍手喝采した。

その後鼎を頭から抜こうとしたが、抜けない。いくら引っ張っても抜けない。叩き割ろうとしても割れず、耐えがたい音響が響くのみ。当のお坊さんは、ただ苦しがる。
しかたがないので、鼎の三本足に布をかぶせて医院に。通行人に指をさされながら。医者にも、手のほどこしようがないと言われた。医学書にもない症例、と。

しかたなくお寺に戻り、しばらく茫然としていたが、耳や鼻を失うことになっても命が助かればよいと言う人があって、思い切り引っ張ると、耳や鼻がもげたが、ようやく抜けた。

茶目っ気を出して何かをしてみる、ということがあるかもしれませんが、場合によっては取り返しのつかないことになるので、気をつけたいものです。