見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

救いは神に

どうか我らを助け、敵からお救いください。人間の与える救いはむなしいものです。
詩編108編13節)

108編は旧約聖書の歴史におけるふたつの出来事を念頭に置いています。ひとつは出エジプトの出来事です。もうひとつは、国の滅びです。
出エジプトの出来事は、イスラエルの民の歴史の原点、出発点に置かれるべき出来事です。神はエジプトで奴隷状態であったイスラエルを、大いなる御手をもって救い出されました。「エジプトの国、奴隷の家から導き出」す。それはたんに社会的、民族的な苦難からの解放ということにはとどまらない意味をもつものでした。すなわち過越の御業は、イスラエルを罪の奴隷状態から救い出す神の贖いの恵みを示すものであったのです。過越の出来事において、犠牲の動物の血が流されたことがその証です。
過越の恵みは、新約の主イエス・キリストにおいて成就しました。主イエスはわたしたちの罪のためにただ一度ほふられた犠牲の小羊です。主イエスの十字架の贖いの血潮によって、わたしたちも赦しの恵みにあずかりました。出エジプト、過越の御業において覚えられるべきは、この奴隷からの解放の出来事が神の恵みによってもたらされたことであり、いかなる意味においても人間による救いではなかったということです。

イスラエルはその後荒れ野の40年の旅路を歩み、約束の地カナンを与えられて定住し、王政を敷くこととなります。そして、イスラエル王国は南王国と北王国とに分裂します。そうした中で、イスラエルの歴史の原点であった出エジプトの出来事において示された大切な真理が、繰り返し忘れられることとなるのです。イスラエル王国の歴代の王たちは、しばしば人間の与える救いを求めることとなったのです。
旧約聖書預言者たちは、軍事大国によりかかり、迎合するイスラエルの王たちの政策を厳しく批判しました。なぜなら、それは神を忘れてこの世の力に頼む態度であったからです。しかし王たちは預言者たちの言葉に耳を貸そうとしませんでした。その結果、南王国も北王国も共に滅ぼされることとなったのです。イスラエルがその歴史の中で底辺に落ちた、最も大きな苦難の時であった捕囚の出来事です。
この大いなる苦難の時はまた、イスラエルがそれまでの自分たちのありかたを根本的に顧みる時ともなったでしょう。なぜならこのことにより人間による救い、人間が与える救いがいかに無力であるのかを痛切に思い知らされることとなったからです。そしてイスラエルは彼らの主なる神を思い起こすこととなったのです。悔い改めて、神に立ちかえることとなったのです。

憐れみ深き神は、70年の捕囚の時、裁きの期間が満ちると、イスラエルの民がもう一度祖国に帰還すること、そして滅び、荒れ果てていた国を再建することへと導いてくださいました。イスラエルの再建は、神の恵みにより頼むことなしにはなされなかったことでした。その意味でそれは彼らの原点に、あの出エジプトの出来事に立ちかえることでもあったのです。第二の出エジプトとも言うべきことであったのです。
13節「人間の与える救いはむなしいものです」。ここに、旧約の神の民イスラエルの歴史の体験が、ただ一言で言い表されています。そしてこれは、すべての信仰者たちの確信でもあります。2節で詩人は言います。「神よ、わたしの心は確かです」。世界が揺れ動き、自分たちの国の状況が厳しさを増し、人々の間に不安や恐れが増し加わっていったとしても、この世がどのような状況に置かれているとしても、人間の与える救いはむなしい、神にこそ救いがある、この真理に立つゆえにわたしの心は確かである、そのようにうたう詩人の信仰に、わたしたちも立ちたいのです。