見張りが朝を

日本キリスト改革派岐阜加納教会牧師のブログ

恵みにより(2)

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
(ローマの信徒への手紙3章23、24節)

24節の「贖い」とは、本来奴隷が自由の身となるために支払われるべき身代金、代価のことです。奴隷が自由になるためには、代価が支払われねばなりません。それが、なすべきことがなされるということです。
ところで「贖い」ということのひとつの意味は、奴隷が自力で積み立てた資産を主人に支払うということです。そうすれば、彼は自由の身となります。しかし、すべての人は(ユダヤ人と異邦人の別なく)始祖アダムにあって生まれながらに罪の奴隷であり、それゆえ自力によって自分を贖い、自由の身とすることはできません。義を積み上げることが代価を支払うということであり、義人となることが釈放の条件です。しかし、生まれつき不義なる者が義人となることは不可能です。それゆえ、人は死ぬまで罪の奴隷であり続けるほかはありません。
それこそが、人は生まれながらに罪に支配されていると聖書が語ることの意味です。そして「罪の支払う報酬は死」(6:23)です。わたしたちは、この生まれながらの罪と死のさだめからどのようにして救われ得るのでしょうか。

まことに感謝すべきことに、神はわたしたちを罪と死の束縛から解き放つために、独り子イエス・キリストを世に遣わし、この方をわたしたちのための贖いとなしてくださいました。
この方はわたしたちと異なり、罪のない方でした。その生涯において、完全なる義を貫き通されました。そのような方が十字架につけられ、死なれました。十字架は罪の刑罰です。もし罪人が十字架につけられて死ぬということがあるとすれば、それは彼が自分の犯した罪の代価を支払ったということにすぎず、それゆえ彼の死は人類の救いにも、彼自身の救いにもなりません。
しかし罪なき方が、にもかかわらず罪の報酬を支払いたもうたのです。義なる方が、にもかかわらず不義の刑罰を受けたもうたのです。すなわち、この方はわたしたちの代わりとして、あの十字架の上で尊き血潮を流されたのです。
神の子キリストはわたしたち罪人のひとりとなられ、わたしたちの罪の現実のただ中に入って来られました。そしてわたしたちの死をその身に引き受け、死なれました。これが贖いです。キリストの死は、わたしたちの罪の代価です。神に対して罪の代価を支払うべきはわたしたち自身でした。しかし、神は愛する独り子を十字架につけることにより、みずから尊き代価を支払ってくださったのです。
神は独り子を死なせるほどに、わたしたちを愛してくださいました。神のこの愛ゆえに、わたしたちは罪と死の牢獄から釈放され、自由の身とされたのです。これがキリスト・イエスの福音です。

命とは何か。罪とは何か。救いとは何か。この世にはさまざまな教えを説く人々があり、さまざまな救いの道が語られています。しかしわたしたちは、救いの道をこの世の言葉や知恵によっては知ることはできません。この世のどのような知恵者も、みずからを救うことはできません。天来の言葉に教えられることによってのみ、真の救いについて知ることができます。まことの神を知り、神の言葉である聖書に聞くことによって、人は罪から救われるための道筋をはっきりと見出すことを得るのです。